上品な居酒屋

R・Bの会長P・Pセンはブラックーストーンーグループを作り、日本でも日興謐券と組み、企業買収のアドバイスをしたり、投資ファンドの運用をしたりしていた。 KはそのBSに転職し、やがて東京の駐在となった。

一方、FBの企業買収部門の責任者だったBとSの二人はWという会社を興し、同社は野村詮券の出資を得、日本には野村企業情報という会社を作った。 EはこのWに移り、Wーコーポレートープロパティー・アドバイザーズという子会社を作り、社長に就任した。
私はこれらのブティック型投資銀行に強い憧れを持った。 私はP・PやJ・Pと比べれば無名も無名、資力もない虫けらのように小さい存在。
しかし先に述べたR、Sの案件の失敗で、他人の資本や暖簾を当てにしていたのではいつまでたっても真の独立はできないことを思い知った私は、問もなく「M&カンパニー・インク」という会社を一人で作り船出することとなった。 この会社が日本人一個人がウォール街に設立した初めての投資銀行になった。
1991年の秋のことで、会社の発足場所はWの中、Eが使っていた場所だった。 Eに「独立するからオフィスが要る。
どこかいいところを知らないか」と言ったら、「H、ウォール街の投資銀行はみんな大量に首きってオフィスはカラカラ。 家賃を払ってオフィス借りるのなんて馬鹿らしいことは止めろ。
僕のオフィスをタダで貸す。 だから僕のところに来い。
家賃に代わるものとして、僕の会社と合弁事業をしよう。 一緒に案件を取り上げて、収益は君の会社と僕の会社で折半だ。
君にはオフィスだけでなく秘書も部下も貸す」。 こんなに強い支援を与えてくれる会社はなかった。
GSも双方合意での辞任のあと、ロンドン支店の不動産部の顧問となり収益を私二割、G8割で分けないかとか、立ち上げの問別棟にあるスペースをタダで貸してくれるなど申し出てくれた。 しかしEの申し出がはるかに好条件実績作りであった以上に、彼と一緒に働けるということ自体が嬉しくてたまらなかった。
こうして、私はGSを後にした。 「やっと解放された。
自由なんだ」というのが、心の底から湧いてきた、一番自分の気持ちを率直に表す表現だった。 ウォール街での40代以降の生き方その後、M&カンパニーをEと二人の会社にすべく、いろいろ計画を練り始めたが、思わぬ好条件の話が彼のところに持ち込まれた。

それは彼の顧客でヘッジーファンドの王者Jーソロスからの話で、それまで株式や通貨の運用に専心し、不動産に投資していなかった彼が、新しくクオンタムーリアルテイー・ファンドという世界の不動産に投資をするファンドを作り、Eにその運用を任せるというものだった。 すぐに10億ドル単位の運用ができる。
ちっぽけなM&カンパニーから始めるのとは、訳が違う。 Eが私に対するコミットメントから、この申し出を受けることを躊躇しているのは明確だった。
私は今こそ彼の友情に対して応え、彼にこの機会を逃させてはいけないと確信した。 そして私のことはまったく心配しないでいいこと、彼がこの機会を掴んでくれることこそ私の幸福であること、そして彼なら絶対に成功できると信じると説いた。
そしてめでたく、彼はクアンタムーリアルティーの社長に就任した。 EはJのもとで大成功した後、今ではJの元も去り、THCGというインターネット企業を育てる投資会社を友人とともに買収し、その会社の社長を務めている。
K・Eの方は、これもブラックーストーンを去り、Cグループの幹部やトラベラーズ保険の資金などを運用するGSCパートナースという投資会社の社長を務めている。 マンハッタンの寿司屋の二階で、額を突き合わせて「自分で自分を雇うこと」を議論した3人は、それぞれ別の会社になったとは言え、その夢を実現した。

典型的とまでは言えないかもしれないが、これがウォール街で働く多くの投資銀行家の、40代以降の生き方である。 蛇足であるが、ブラックーストーンと日興証券の提携はすでに解消され、またWは2000年の秋に野村との提携を解消した上で、ドイツのD銀行に売られてしまった。
そのDもAAという保険会社に買われた。 この頃に誕生した多くのブティック型投資銀行も、そのほとんどは1990年代の後半に売られた。
どの会社も、自分の信ずる経営哲学を追求するという価値観よりも、経済的価値を作ったらさっさと市場のピークで売り抜けることを重要な価値観としていた証拠だと思う。 私の生き方とは違う。
Bとの出会いさて、当社の話に戻ろう。 私の現在のパートナーであるBRはM&カンパニーの設立手続きをした時の顧問弁護士であった。
彼と知り合ったのはHB大学のキャンパスで、彼は当時法律大学院の学生であると同時に、HBとM工科大学が一緒に主催している「不動産および都市開発研究フォーラム」という学生団体の幹事長をしていた。 私は彼らにゲストースピーカーとして招かれ、「日本から来る資本」という表題で講演をした。
それ以来Bは私にコンタクトを続け、またGも将来の学生リクルートのためを考え、彼らの活動に寄付をして応えたりしていた。 私が独立するときに彼はS&Oという大法律事務所に勤務しており、私はこの若い弁護士に顧問弁護士になるよう依頼した。
彼は事務所内でも6ヵ月という最短記録で、証券取引委員会や全国証券業協会などから証券免許を取得する手続きをしてくれた。 彼ができるだけ弁護士費用もかからないようにして、情熱的に私を支援してくれたのは、私が彼を覚えていたということもあるが、それよりもひとえに私の「顧客と投資家と投資銀行家が利害を一致させるバンK」という哲学に共鳴してくれたからだと思う。
やがてこの若くて優秀な弁護士は、いかなる立派な法律事務所よりも、大投資銀行よりも、Mカンパニーというワンマンーショップを自分の職場に選び、「ジェネラルーカウンシル」という法律顧問の立場から共同経営者となってくれた。 HBでのスピーチは、彼との運命的な出会いとなったわけである。

「アメリカの会社なのだから、アメリカ人の君の名前が先で、僕の名前が後だ」、と私が提案し、会社の名前はR・Mとなった。 彼の主張で会社のロゴはK家の家紋である「蔦」を使ったものとなった。
そして現在に至る。 このようにして私は「丁稚時代」をやっと卒業した。
Wを卒業してから、2年間の丁稚時代であった。 生まれつきのマーチャントーバンカーここで時代が少し遡るが、私に「卒業証書」をくれた人の話をしておかなくてはならない。
その人は、私がSでお世話になった上司のなかで、最も怖かった人で、O徳行さんという。 彼は卓越したバンカーであった。
その彼の一枚のクリスマスーカードこそ、私にとっては「卒業証書」と呼ぶに相応しいものだ。 残念なことに、Oさんは病を得て他界してしまい、今はもうお目にかかることはできない。
実績作りOさんは、S銀行のニューヨーク支店長や専務取締役になられた後、Sクレジットというクレジットーカード会社の社長に就き、間もなくフェリックスーRに頼まれてRーフレール移り、その日本法人作りをされた。 私の世代でも銀行を辞めてウォール街に行くなど、なかなか許されない雰囲気があったのに、Oさんのような重役となればなおさらたいへんなことであったろうと思う。

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